無理しても続かないのです。

うじうじした文章ばっかりで我ながらどうかとは思っているが、こればっかりは仕方がない。

無理しても続かないのです。

まとまらない思いを飾らずに並べたらこんなことになっちゃってました。

でもこれらが、原型に1番近い状態で表れている僕の本心なので、もし気持ち悪いと感じる方は、あまり見ないことをオススメします。

誰かにわかってほしいけど、誰にでもわかってもらえるものじゃないことくらいは、わかっています。

 

なんと醜い心か。

美しくありたいと思う姿を、美しいと思える日はくるかな。

こんな僕ですが、また来てくれたら嬉しいです。

何色を選んで生きていこう?

もしかしたらもしかして、初めて挫折を味わっているかもしれない。

だけど不思議と悲しくはない。

それならまだ挫折ではないかもしれない。

 

久しぶりに悔しいと思っている。

そう簡単にはいかないもんだ。

なんとかなるとは思ってる。

なんとかなると思ってた。

どうにもならないこともある。

自分じゃどうしようもないことがある。

誰も悪くない。

そういうタイミングだったんだ、きっと。

 

自分には何ができるか考えてみる。

自分は何をしていきたいか考えてみる。

できることと、やりたいことと、できないことと、やりたくないこと。

どの道を行けばいいのだろうか。

この道は行っていいのだろうか。

 

人生には白黒つかないこともあると知る。

曖昧な、グレーな人生。

色をつけてもいいらしい。

自分はどんな色にしよう。

何色を選んで生きていこう?

 

そんなことをぼんやりと思う、4月。

 

やさしくない

歳を重ねるにつれて、自分が優しくない人間であることに気づかされる。

なぜこうなってしまったのか、今となってはよくわからない。

優しいつもりではいる。

優しい人だとも思われている。はず。

いつでもニコニコしているし、誰にでも分け隔てなく接してるし、少し嫌いな人間はいても争うほどじゃない。

我ながらわかりやすく「いい人」ではあると思うんだけど、まさにそういうところが「優しくない」気がする。

なぜそう思ってしまうのか、未だによくはわかってない。

世界は愛で溢れてほしいし、愛し愛される人生を望んでいるのに。

満たされなさに満たされている。

きっと余程傷つきたくないんでしょうね。

さらば去年までの腐った自分。

ここからは超絶おもしろ人間を目指す僕が、足掻き、もがき、苦しみ、憎み、溺れ汚れてこの世を生き抜いていく様を、気が向いた時だけお届けしていくぜ!

 

ところで、僕はなんでこんなに恥ずかしいことが怖いんだろう?

人が人の悪口を言ってるのを見聞きすると、自分が言われてるような居心地の悪さを感じます。

そのくせ自分も人のことを悪く言うのだけは大得意で、それを自分の強さと勘違いしてる節があるのでたちが悪い。

きっと余程傷つきたくないんでしょうね。

だから他人を悪者にして身を守ってるつもりでいる。

それが他でもない自分を傷つける行為なのかもしれないのにね。

そんな風に思えた今日から、いや今から、優しい人になろうと決めました。

でも優しさってなんだろう?

改めて考えると難しいものです。

きっと簡単なものじゃないからこそ、わからないなりに人を思いやれるのが優しさなのかもしれない。

なんて考えながら、今日は寝るとします。

 

世の中ってクソだと思う。

世の中ってクソだと思う。

自分の言うことだけが正しいと考えていて、他人を否定せずにいられない人間はクソだと思う。

努力不足の自分のことは見て見ぬ振りをして、不幸を他人のせいにする人間はクソだと思う。

周りの迷惑を考えないで、自分勝手に振る舞う人間はクソだと思う。

世の中をそんなふうにクソ呼ばわりする僕は、本当にクソだと思う。

クソみたいな世の中を生きていかなきゃならない。

いっそのことクソ人間でいた方が楽かもしれない。

というか既に立派なクソ人間なんだ。

ひとかけらでも優しさを持ち続けられるようにしたい。

 

話せばきっと、わかりあえる。

「わからない」のと「わかりあえない」のは全然違うと思うんです。

人と人、お互いの気持ちはどう頑張ったって最終的には「わからない」です。

自分ですら、自分が今何を思っているかは「わからない」ことばかりですから。

ましてや他人になんて「わかる」はずがないんです。

答えは無いです。

ただ、「わかろうとする」こと、そして「わかりあう」ことはきっとできます。

人と人、お互いの気持ちを語り合うことが、「わかりあう」ためには大切です。

あなたの気持ちは本当に「わかってもらえない」んでしょうか。

わたしの気持ちはいつか「わかってもらえる」でしょうか。

それは「わかりません」。

「わかりたい」から、話しましょう。

「わかってほしい」から、話しましょう。

話し合うために、人には言葉があります。

うまく言葉にできなくてもいいし、上手に話せなくてもいい。

あなたの「わかってほしい」という気持ちが、わたしには「わかる」から。

話せばきっと、わかりあえます。

ゆっくり休んで、また明日。

知らない誰かのちょっとした言動にもやっとした時、自分の心にゆとりがなくなってることに気づく。

それがまったく自分に向けられた悪意じゃないとしても。

人は、というのは主語を大きくしすぎだろうか。

少なくとも僕は、日によって、時間によって、相手によって、心の器の大きさが全然違うものになる。

自分が元気で満ち足りている時、僕は全ての人や物を受け入れられる気がする。

なんでも愛せるように思う。

自分が疲れて満たされない時、僕は全ての人や物が受け入れられない気がする。

なんでも憎らしく思える。

誰しもみんなそうなのだろうか?

僕だけが未熟なのだろうか?

そもそも未熟だからそうなのだろうか?

成熟とは何か。

自分っていつまでも成長しないなと感じることもある。

自分って随分変わったなと感じることもある。

自分らしさに迷うことも、そんな迷いこそが自分らしく感じられるときもある。

なかなか答えは出ないけど、今日の答えが明日も同じとは限らない。

ゆとりのある大人になりたいけど、大人だからゆとりがあるのか、ゆとりがあるから大人なのかは、よくわからない。

わからないまま生きてるし、わからないから生きている。

とりあえず、今日は少し疲れたみたい。

ゆっくり休んで、また明日。